26回目 技術の学びかた
26回目 技術の学びかた
治療界にいる大方の者の気持ちには、とにかく「治療をするぞ」という思いがある。また自分の治療技術を常に向上させたいとも思っている。ただ多くの者/あるいは多くの者以上が、現実という高い壁にはばまれ自分の思いどおりにならないのも事実としてある。
○治療技術を学ぶということ すべての物事がそうであるように、治療技術も自らの経験の上にしか積み重ねることができない。経験という土台を強固にすることが治療技術向上の一つの基本になる。
○土台とはなにか 事実を積み重ねていくもの。治療者の思いこみなどのうえには強固な土台はきずけない。たとえば「背骨を治療すればすべてがなおる」ごとき考え。患者さんに向かって、ほとんど根拠のない「今日はこれで良いでしょう」。だれが来院しても「同じ治療をする」等。このような考えでおこなた臨床では土台にならない。
○治療とは 直感的であれ理論的であれ、方針をたてておこなうもの。とう然、立てた方針に間違いがないかどうかを調べる必要はある。
私のばあい「この治療でまちがいない」と確信しても、絶対基準法で撥ねられることは日常茶飯事。はねられれば治療方針をたてなおし全身を見直す。再度測定。うまくいけばそれでよいが、まずければ方針転換→見直しを幾度となく繰り返す。絶対基準法に合格するまでくりかえす。*絶対基準法:6回目を参照のこと。
臨床ではこの繰り返す過程が非常に大切になる。色々のものを気づかせてくれる。副産物を生でくれる。明日への治療に結びつくのだ。そして脆弱だった土台は徐々に強固へとむかう。
私はそこそこ治療世界にいる。天才と呼ばれる治療者。名人と呼ばれる治療者の何人かにあったことがある。やはり絶対基準法によらない結論には脆弱性を感じずにはおれなかった。
○ここで学ぶべきことは 治療技術の向上は「精神の座」をぬきには考えることはできない。日々の臨床では常に「治療するのだ」という気持ちをわすれてはならない。治療者が「治療をするのだ」という気持ちをわすれたら治療者ではなくなる。
○以下の話を自問してもらいたい。 たとえばあなたをたよって患者さんが来院する。そのときあなたの「精神の座」はどこにあるのか/あるべきなのか。
あなたは患者さんを本気で治すつもりで向かっいるのか。自分の力をだしきるつもりがあるのか。「精神の座」の意味がここにある。治療に理屈はいらない。必要なのは「治療をするのだ」という気持ちだ。
○先人の教え 言い古されたことだが、はじめから達者/名人はいない。長い年月と研鑚のよって人にそう呼ばれる。
だれでも出発というライン上(線)に一度はたつ。ただ個々によって歩く道に違いがうまれる。歩く道を決めるのは本人なのだ。「本人の精神の座」にある。
○精神の座を無視する とう然、中には「精神の座」など関係ないと考える治療者もいるだろう。それでも10~20年、あるいはそれ以上でも治療院を経営していけるかもしれない。では40~50年はどうだろうか。
「陰にあるものはかならず陽にでる」という。晩年のあなたを治療者として来院する患者さんはいるだろうか。