カイロは米国の正規医療。もみほぐし治療はしない。医療と慰安は両立しない。

34回目 カイロプラクティック医術 一丁目1番地をたずねて

34回目 カイロプラクティック医術 一丁目1番地をたずねて

カイロ医術の治療対象になる疾患は、動因が物理的エネルギーにかぎられる。

◆事実と観念的(≒思い込)を混同してはいけない
パーマー先生の場合、背骨を「ガクー」としてよくなった→過去の事実。背骨を「ガクー」とすれば良くなる→期待→思いの世界。
カイロの世界にいると「事実と思いこみ」を混合しそうになる。たとえば「ガクー」とすれば疾患がよくなるような気がする。よく考えてみれば「誰も/何も」そんなことを保証してはいない。単に過去の事実を治療者の都合の良いように解釈をしているだけだ。

逆に考えてみよう
「ガクー」として良くならなかった場合どう考える。「ガクー」としても良くならないという結論を導くことができるのだろうか。おそらくできないのではないか?なぜなら「ガクー」をすることに明確な理由がないかだら。

◆背骨の治療において
「ガクー」同様、臨床において背骨を治療すれば良くなることなど「誰も/何も」保証してはいない。唯一保証しているのがカイロ哲学だ。ただ哲学といっても、アジア/東洋圏のように、人々のあいだで1千年~2千年の歳月をかけて自然発生的に生まれたものではない。哲学とう名前のもとにつくられた「哲学」なのだ。いわば意見に近い。

ではなぜ「背骨万病一元論」のような考え方がうまれたのか。たぶんキリスト教という一神教の思想的背景があったからではないだろうか。一つに集約する。一を好むなどなど。
あるいは単に技法の学習過程において、教える側も学生側もともに誤解をしただけかも。

背骨は上下2椎間で実測長2mmズレれば、ズレた椎骨より下部はマヒをする。生理学的には背骨のズレは治療対象部ではない。エネルギー散逸原理にもとづく最少エネルギーで身体立位構造を維持するための、外的刺激/信号にたいする脳の対応の結果なのだ。

背骨は直接的外力をうけないかぎり治療対象部になることはほとんどない→絶対基準法で治療後を確認すればわかる。

◆臨床の一丁目1番地→治療手順
・治療を立位/腹臥位/仰臥位のどの姿勢に患者さんを導入するのか。言いかえればどの
 姿勢から患者さんを治療しはじめるのか。
・右/左のどちら側から治療をはじめるのか?どのように「その側」を決定するのか。
・「本日の治療」の終了は絶対基準法での「パス/合格」を条件とする。

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